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救済の柱 ー未来のタンタラン市を迎える仮設の教会ー

更新日:6月30日

2023 DAWT THA BOR


  • 2023年度 岡山理科大学工学部建築学科 卒業設計審査会 最優秀賞

  • JIA岡山学生卒業設計コンクール 2024 最優秀賞 [JIA 岡山地域会] → JIA全国学生卒業設計コンクール2024 審査員特別賞(城戸崎賞)

  • 第19回優秀卒業設計コンクール 特別賞 [岡山県建築士事務所協会]

  • 2023年度建築学科優秀卒業設計作品表彰[日本建築学会中国支部]

  • 第 65 回全国大学・高専卒業設計展示会 出展作品

 

 絶望の淵で〈許す〉とは?当事者が発するその問いの意味は重い。国軍のクーデターにより、この学生が生まれたミャンマー チン州の主要都市タンタランも、一瞬にして銃声と炎に呑まれた。この提案は、絶望する彼らが、自らの手で仮設の教会を作るための図案を示し、いつの日か必ず救済されることの暗示をデザインしている。具体的には、焼けた街から瓦礫を山中へと運び、憎しみに歪み時に涙がつたう顔を拭って、大地に焼け焦げた柱を立てる光景から始まる。そして、その光景の先に『十字架の道行』を準えながら、人々の魂を救済へと導こうとする諸場所が計画される。また、この提案の中で特質すべきは、『戸惑う場所』にある。この場所は、三叉路の脇に煤けた柱が一本、大地に立っているに過ぎない。しかし、この場所が、この提案の全てとも言える。長崎の枯松神社のような境内を進んだ信徒は、この柱を前に究極の2択に迫られる。「あなたは、許せるか?(左脇の道へ)それとも、許せないか?(右脇の道へ)」この街の信者にとってこの柱は、国軍によって奪い去られた平和な日常そのものである。それを前に、〈許す〉とは何かが問われる。一方で、この柱自体が、いつの日か必ず「救済」されることの暗示でもある。柱の左脇に物理的に引かれた許しの道。その道は、誰もが進めそうな明らかな道として計画されている。つまり、救済された信徒の姿が、その先にデザインされているとも言える。(教員推薦文)

 

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